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のらぼう菜の歴史

 「のらぼう菜」の原種は、闍婆(じゃば、現在のジャワ島)を経由してオランダの交易船が持ち込んだセイヨウアブラナ(洋種ナバナ)の一種「闍婆菜」(じゃばな)という説があります。 江戸時代後期の1767年(明和4年)9月、関東郡代伊奈忠宥が地元の名主小中野四郎右衛門と網代五兵衛に命じて、「のらぼう菜」の種子を江戸近郊の村々に配布した記録が残っています。「のらぼう菜」の普及によって天明の大飢饉(1782年 - 1788年)及び天保の大飢饉(1833年 - 1839年)の際、人々を飢餓から救ったと伝わっています。



 あきる野市の子生神社(こやすじんじゃ)には、この事績を記念して「野良坊菜之碑」が1977年(昭和52年)に建立されています。毎年3月の最終日曜日に「のらぼう祭り」が開催されています。 野良坊菜之碑には、引田、横沢、高尾、留原、小和田、五日市、深沢、養沢、舘谷、檜原の名が記されています。

 「のらぼう菜」を含むナバナ類は、油を採る目的の他に、食用として葉や蕾が用いられ栽培地の気候や風土によって、さまざまな特質が見られるようになりました。 西多摩地方ではこの食用ナバナを「のらぼう」または「のらぼう菜」と呼んでいました。「のらぼう」には「野良坊」という漢字表記がしばしば見られますが、この名で呼ばれるようになった経緯は定かではありません。


古文書「闍婆菜種御請証文」

JAあきがわで所蔵している古文書の原本



解読文、現代語訳 五日市郷土資料館 郷土の古文書 その17(あきる野市HPへ)


武蔵国全図(1856年、江戸) より

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